色水の涙

 ポロポロと、零れていくものがあった。
 それは私にとって大切なもので、他人にとってどうでもいいもの。

「ああ、虚しい」

 嬉しいとはなんだろうか?
 楽しいとはなんだろうか?
 悲しいとはなんだろうか?
 腹立たしいとはなんだろうか?
 全て。全て、零れていく。

「美鶴、何してんだ?」
「達馬……。何、してるんだろうね?」
「はぁ? お前が分からなかったら、俺が分かるはずないだろうか。とりあえず、そこから出てこいよ」
「……うん」

 ポロポロ、ポロポロ。――どんどんと、零れおちていく。
 私の大切な大切な、もの。

「ったく、掃除用具を放り出してロッカーの中に引きこもってるんじゃねえよ」
「ごめん」
「別に謝ってほしいわけじゃねえんだけど……。まあ、いいか。さっさと片付けるぞ」
「うん、ありがとう」

 私が床にばらまいた箒やモップ、ちり取りを一つずつロッカーの中へと仕舞っていく。少し、床が汚れてしまっていたため、達馬に手伝ってもらって掃除もした。
 塵を掃き……、モップはいいか。どうせ、明日になればまた床には塵がたまり色がつくのだ。

「達馬、どうすればいい?」
「どうすればいいって……、何を?」
「なん……だろうね」
「だーから、お前が分からなかったら、俺も分からないっつってるだろ。ほら、帰るぞ」

 達馬は私の手を引いて、教室を出た。――私はただ、その後ろを急ぎ足でついていく。
 歩幅が違うのだ。達馬と同じ速度で歩くには、私はどうしても急ぎ足になってしまう。けれど、途中で達馬はその様子に気づき、歩みを緩めてくれるから優しい。

「今日の夕飯は唐揚げだってさ」
「へえ、おいしそう。うちはなんだったかな……」

 今日の夕飯は、なんだっただろうか。母から聞いた覚えがあるような気もするが、覚えていない。――いや、違う。今朝、家に母はいない。いなかった。
 それじゃあ、父に聞いたのだろうか。いいや、父にも聞いていない。父もいなかった。
 今朝、家にいたのは、なぜか私ただ一人だけだったのだ。……あれ?

「おい、どうした美鶴」
「……うーん。なんでもない」
「そうか? お前、最近はいつもそうだよな」
「そうって?」

 不思議そうに達馬を見上げると、達馬は呆れたとても言いたげな表情で私を見下ろしていたが、なにも言わずに前を向いた。そしてそのまま、お互いなにも話さず靴箱のところへと向かう。
 上履きからローファーへと履き替え、辺りを見回すと、人影は多いのにも関わらず声が聞こえない。達馬の声しか、私には聞こえていなかった。
 ぼんやりと、玄関から外へと飛び出していく同級生に先輩後輩、先生たちの姿を見つめていると、ぽかり。達馬に頭を叩かれてしまった。――それほど強い力ではないが、頭を叩くと脳細胞が死ぬと委員長が言っていたのを忘れたのかコイツ……。
 
 
 ――ドサッ。
 
 
「キャ――――!?」
「いやぁ――!!」
 
 
 ――グチャァ。
 
 
「うわああ!!!」
「なんだよアレッ!」
 
 
 早足で、達馬を置いていくように玄関から外へ出ると、目の前に何かが落ちてきた。
 女子の声だけではない。男子の声も聞こえる。誰もかれもが叫び声をあげている。――唯一、声を出さないのは私と目の前にいる”私”だけだ。
 空から落ちてきた”私”は、頭から地面に落ちたようで、首がポッキリと折れてしまっている。ついでに顔も、潰れている。目は飛び出し、地に投げ出された手足は複雑に折れ曲がり、白い骨がところどころ見えている。

「美鶴っ!」

 達馬に抱きしめられ、ついでに目をふさがれながら、私は”私”から遠ざけられる。ううん、これはなんだろう?
 ポロポロ、ポロポロ。零れていくもの。それは、なんだっただろうか?
 痛い?
 苦しい?
 辛い?
 虚しい?
 何かは私から零れおちていく。放水されたダム湖の水のように……。

「美鶴、おい。大丈夫か!?」
「……」
「達馬落ち着けって!! あんなもん目の前に落ちてきたんだから、ショック受けてんだよ!」
「美鶴ちゃん、大丈夫……じゃないよね! 達馬君、保健室に連れて行ってあげて!」
「分かった! 美鶴、行くぞ……」

 達馬に手を引かれ、保健室の先生に先導されながら保健室へと向かう。
 一度、“私”を見ようと振り返る。しかし、そこは先生たちが持ってきたのだろうブルーシートで覆われていた。ああ、”私”が見えない。

「美鶴、見ようとするな」
「達馬……」
「先生が、おじさんとおばさんに連絡するって言ってたから……。お前は少し寝てろ」
「……うん」

 保健室に着くと、ソファに座らされた。ふかふか柔らかいソファではなかったけれど、私の体を支えてくれるから……落ち着く。達馬が隣にいてくれるからかもしれないけれど、ね。
 達馬にもたれかかるように、私はゆっくりと眠りについた。
 
 
 
 
 
『おはよう、私』
「おはよう、”私”」
『びっくりしたでしょ』
「うん、とっても」

 ――これは、夢だろう。目の前に、飛び降り自殺をした”私”がいる。いや、あれは飛び降り自殺でいいのだろうか?

『ええ、もちろん。屋上の鍵を壊して、屋上から飛び降りてやったわ』
「へえ、凄い。屋上の鍵って、頑丈で壊せないって有名だよ?」
『それは素手で怖そうとするからよ。工具を使えば、どうってことないわ』
「工具……。家から持ってきたの?」
『いいえ。技術室から借りてきたの』

 ”私”は楽しそうに、笑っている。自殺して、私の夢に現れて……何が楽しいのだろうか。”私”は一体、何がしたいのだろう……。

『ねえ、私。本当に分からないの?』
「分からないって?」
『あら……。そう、そういうこと。ぜぇーんぶ忘れてしまったのね』

 忘れてしまった。分からない。私は何を忘れて、”私”は何を知っているのだろう。
 ”私”を見つめると、”私”は楽しそうに悲しそうに寂しそうに嬉しそうに微笑んでいた。私は、あの笑みを見たことがある。ある気がする。それは、どこでだろう。

「ねえ、”私”。貴方は、何を知っているの?」
『全部よ』
「……全部」
『ええ、そう。全部。貴方の中から零れおちていったものも、全て知っているわ』

 ポロポロ。何かが零れていく音が聞こえる。
 ポロポロ、ポロポロポロポロ。私から、何かが零れおちていく。

『ああ、まだ零れていたのね。まだ……、いえ。もう零れるものもなくなりそうなほど、零れおちてしまったのね。それは駄目。駄目なのよ』

 ”私”はどこか、怒ったように頭を振った。”私”はどうして、怒っているのだろう。”私”は何に対して、怒っているのだろう。――私には、分からない。

『美鶴。”私”の可愛い美鶴』

『貴方、達馬まで忘れてしまうの?』

『貴方、達馬まで零してしまうの?』

『そろそろ、目を覚ましてもいいんじゃないかしら』

『ねえ、美鶴。達馬はずっと、貴方を待っているわ』

 ――ポロッ。
 何か、大切なものが零れおちてしまいそうな気がした。
 私はなぜか、それに向かって走り出す。理由は分からないけれど、それを零してしまってはいけないと誰かの声が聞こえる。

『美鶴。”私”の可愛い、双子の妹』

『お父さんとお母さんと、”私”は。ずっと、貴方を見守っているわ』
 
 
 
 
 
 目を覚ますと、そこは真っ白な部屋だった。
 柔らかな風はカーテンを揺らし、遠くの方から鳥の声が聞こえてくる。

「ここは……」

 起き上がろうとすると、左手が重い。左手の方へと視線を向けると、そこには見覚えのある達馬より、少しだけ痩せた達馬の姿があった。
 
 
 
「ああ、そうか。私……、交通事故に巻き込まれたんだっけ」

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