セイレイ川のひみつ

 その日はとても天気がよく、姉の提案で山奥にあるセイレイ川に家族そろって遊びに来ていました。姉は川や植物、空など自然の風景写真を撮ることが好きで、今も自前のカメラでそこらの木々や川を泳ぐ魚を写真収めています。父と母、そして弟は水深が一メートルほどある場所で泳ぎながら、川底にいるテナガエビを捕まえようとしているようです。
「帰りたいなあ」
 ぽつり。ミツルはつぶやきました。
 ミツルは弟たちのいる場所から少し離れた浅瀬の岩場に座りながら、足を膝下まで水につからせて涼んではいますが、もともと川に行くのは反対でした。
 川幅はそれほど広くなく、自然にできた木々のトンネルに包み込まれたここ。セイレイ川は、水も冷たくとても涼しいのですが、今日の最高気温は三十四度。ミツルは冷房の効いた涼しい家から、一歩も出たくなかったのです。
「ミツルー、あっちにおもしろそうなものがあるから一緒に行こうよ」
「暑いから動きたくない」
「もう。暑いのは姉ちゃんも一緒なんだけどなあ」
 川の向こう岸でトンボの写真を撮っていた姉は、川から上がると川下のほうへと歩いていってしまいました。ミツルにとって、姉がおもしろそうと言うものは、それほどおもしろいと思えるものではありません。たまに、ミツルもおもしろいと思えるものである時もありますが、暑さでだらけきっているミツルは、川から出る気は全くもってありませんでした。
 そんなミツルの視線の先には、川についた時からずっと競い合うように飛び交っている青いトンボが二匹いました。そのトンボの名前をミツルは知りませでしたが、それはそれは綺麗な羽根を持つトンボでした。
 二匹の近くには、同じ大きさの黒いトンボが一匹、葉っぱに止まって二匹の様子を見つめています。あれは、メスを競って戦っているのでしょう。勝ったほうがメスと子作りができるのです。
「それにしても、あきないなあ」
 ミツルが川にやってきてから、二十分は経っていますが、二匹は休むこともなくメスの近くをグルグルと飛び回っています。時たま、メスの近くから大きく離れることもありましたが、それでもすぐにメスの近くに二匹そろって戻っていきます。
 それから十分ほど経ったころでしょうか。二匹はメスの存在を忘れてしまったのか、メスから離れたところで素早く飛び交っていました。ブンブン、グルグル。ものすごい速さで川の上を飛び交っています。
「えっ、ちょ、うわあ!」
 そして、勢い余ったのか、二匹はミツルのいるほうへ真っ直ぐ飛んできたのでした。
 二匹のトンボとぶつかったミツルは、ドボン。バランスを崩して岩場から川の中へと落ちてしまいました。そこは水深三十センチほどの場所で、それほど深くはありませんでしたが、ミツルはどんどんと深い場所へ落ちていくような気分になりました。
 パッと目を開くと、そこは見覚えのあるセイレイ川ではありませんでした。川の中に落ちたというのに、視界は澄んでおり、とても不思議な光景がミツルの目に映ります。
「うわぁ……。すごい」
 そこは、まるで夢のような世界でした。
 底のほうから、上へ上へと浮かび上がってくるシャボン玉のような、大小様々な泡は、指先でツンッと触れる、弾けて消えてしまいます。
 ミツルの周りを泳いでいる魚たちは、どれも虹色で、日の光をうけてキラキラと輝いています。小さい魚や大きな魚、少し離れたところにいるイルカたちに水の中を飛び交う虫たちの姿もあります。
「ここは水の中なのに、どうしてイルカや虫がいるんだろう?」
「それは、ここがセイレイ川だからよ」
「え?」
 ミツルの耳元で、誰かが囁きました。振り返るとそこには黒い羽根のトンボが一匹。
「君は、葉っぱの上に止まっていた子?」
「ええ、そうよ。よかったわ、無事でいてくれて」
 トンボは、川に落ちたミツルを助けるために川の中へ飛び込んできたようです。
「あの子たちがごめんなさいね。あとでしっかり説教しておくわ」
「えっと、うん。お願いします」
 ミツルは二匹とぶつかって川の中に落ちたことに驚きましたが、二匹がぶつかってきたことには怒っていませんでした。それは、とても綺麗で不思議な世界を見ることができたからです。
「ねえ、トンボさん。どうして川の中なのにイルカがいるの?」
「それは、ここがセイレイの国だからよ」
「セイレイの国?」
「ええ、そうよ。セイレイ川はセイレイが棲んでいるから、セイレイ川と言うの。私たちは自然の中で見かける動物や虫の姿をしているけれど、それは自分の好きなものの姿になっているだけなのよ」
「へえ……」
 ミツルは驚きました。しかし、思えばこの世界にいる魚や虫たちは、虹色をまとっているものばかりで、自然の中で見かける動物たちとは違います。黒い羽根のトンボは虹色をしていませんが、人間の言葉をしゃべるのでセイレイなのでしょう。
「ねえ、トンボさん。トンボさんはどうして虹色じゃないの?」
「それは、あなたを助けるために急いでここに来たからよ」
「そうなんだ。ありがとう、トンボさん」
「うふふ、どういたしまして。それじゃあ、そろそろ元いた場所に戻りましょうか。ここは、人間が長いこといてはいけないもの」
「そうなんだ。うん、分かった」
 そして、トンボがミツルの肩にのると、目の前に広がっていた世界がユラユラ。いつの間にか、ミツルは元いた岩場の上に座っていました。川の中に落ちたというのに、川の中につかっている足以外、どこも水にぬれていません。
「トンボさん、ありがとう」
 ミツルが肩にのっているトンボに言うと、トンボはグルグルとミツルの周りを三回まわって、川下のほうでいまだ競い合っている二匹のトンボに向かって飛んでいきました。
 
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